アンチコギャルとしての広末涼子



わたくしは、まず最初に一つの危険を冒さなければならないことをいっておく。それは、広末涼子の前には、ある格言が金字塔のごとく立ちはだかってるからだ。その格言 とは「広末涼子の前ではすべての知性はひれ伏さなければならない」*(注1参照)
そう広末涼子は、1つのサンクチュアリとして、厳然と存在しているのだ。そして、私はこの危険をあえておかし、広末涼子という未知なるフロンティアを社会的コンテキストから解読していくことにする。 (注1)「広末涼子が売れたのは、たんにかわいいだけじゃん」などということによって、彼女の解釈を拒否すること。
広末涼子は今現在16歳だ。そして、都内では名の知れた某女子校に通ってい る世間でいう女子高生だ。この設定において、わたしたちは彼女を髪を茶パツ にし、シャネルなどのブランド品を持ち、毎日渋谷を歩き回るいわゆる「コギャル」を連想する。いや、マス・メディアの過剰な報道(その代表的な例「援助交際」)などによって、私たちは無意識的に、彼女をこのような文脈から読まされている。
しかし、違うのである。いや、そればかりかまったく逆なのである。彼女は、髪の毛は真っ黒でしかも、ショートカット。そして、高知県大会で2位になったこともある陸上を、好む。そして、自分の一番気に入っているものを、36色の色鉛筆だと言い切る。つ まり、私たちの社会的文脈において、「コギャル」の彼女を読むことはできない。ここで、もう一度コギャルに議論を移そう。私たちは、コギャルをどのように評価しているであろうか?
先に、マス・メディアの報道について触れたが、マス・メディアは概して、彼女たちに対して批チルドレンであるとか、常に刹那的な快楽しか求めないなど…。
彼女たちを取り巻くエートスは決して好ましいとはいえない。そうした、コギャルのアンチテーゼとして広末涼子が歴然と存在するのである。彼女は、いう「最近、生まれてはじめて嬉しくて泣いちゃったんです!体育祭でリレーに出場したんですけど、3位でバトンをもらって第1コーナーで一人抜いてバック ストレーとでトップに並んで。さぁというときに転んでしまって、でもほかの みんなのおかげで優勝できたんです。その時嬉しくて」(「Views3月号」)体育祭という女子高生とは無縁であろうと思われるシチュエーションの中に、彼女は全力をかける。その時の涙は、その意気込みに他ならない。女子高生=コギャル=なんかケバそう、あそんでそうといった社会的文脈におけるアンチテーゼに対して体育祭で泣く=小学生じゃあるまいし、どこが女子高生なんだ、といった文脈のずれを彼女はさらけ出すことによって、彼女のアイデンティーが保証されるのである。ここにポストコギャルエイジの旗手としての広末涼子が存在するのである.

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長橋 賢吾 t96684kn@sfc.keio.ac.jp