平均律クラヴィア曲集 第1巻:J.S.BACH/G.GOULD (pf) 1962

「ビートはそこにある」 音楽について語らねばならないときの僕の口癖

僕ら音楽家は音楽を生み出しているのではなく
既にそこにある何かを 皆に聞こえるような形に変えているだけなのよ という考え方

グールドの演奏を聴くとき きっと彼もこの考えに賛同してくれたに違いないと確信する
彼の第一音は何かを探っている 自信に満ちてはいるが 音が跳ね返ってくるのを待っている
そして彼の歌声は 捕まえた「何か」が譜面の解釈だけでは聴かせることが出来ない時に発せられる

演奏中に奇声を発することの多いパーカッショニストはそう考えるのだ


そしてバッハ 彼の曲はどんなシチュエーションで聴いても同じ感覚を覚える
バッハでしかないのだ  こういう音楽 実はなかなかない

想像して
電車の中で聴いても 大好きなあの人の部屋で聴いても
サントリーホールで聴いても 実家のぼろラジオで聴いても おんなじ気持ちになる音楽

なぜだろう?

彼にとっての そこにある何か とはつまり「神」だったのだと思う
そして 彼の天才と真摯な努力によって 聴く者はそれぞれの心のうちの神の存在を聞く

そういうこと

ところで
白状すると 僕はあまりメロディーを書くことが得意ではない
思いつかない訳ではないのだけれど
何だかどれも聴いたことがあるような気がして中断してしまうことが多い

なのに 二人の天才が出合ったこの演奏を聴くと僕の中からメロディーが溢れ出る
演奏されている音と対位法的に絡むこともあれば 全く無関係なこともある

そういえば モンク/マイルスのクリスマスセッションを初めて聴いたときもそうだった
モンクがソロをやめてしまってマイルスが入って来るまでの数小節
ベースとドラムだけになったトラックは高校生の僕からメロディーを引きずり出した
マイルスのトランペットがスタジオの空気を震わせ モンクは我に返ったように弾き始める

初めて射精したときのような 殆ど恐怖に近い快感

サウンドチェック中は そんな快感に溺れないように気を付けながら
師匠 吉野金次の「ピアノはピアノじゃなきゃダメなんだ」という言葉を思い出す

客席のどこから聴いても 一台のピアノがそこに在るかのように聞こえなければね
この録音は古くてノイズも多いんだけど ピアノがちゃんとピアノとして記録されている

そしてバッハとグールドが捕まえた「そこにある何か」が封じ込められている
 
 
 
<ー2  Return to SoundCheck Index  4ー>