1986年1月10日 新学部設立構想を発表

  

 新学部構想が具体的に始まったのは、私が知る限り、1985年のことである。
 その年の5月に三期目の塾長に選出された石川塾長は、任期中の最重要課題のひとつとして10年から15年にわたるこの長期構想をうちだした。ただ、石川塾長としては、慶應義塾125周年の記念行事の時から、すでにこの構想を持たれていたようである。

 この年11月20日塾評議員会に提案・了承され、翌86年1月10日の「福澤先生生誕記念会」、いわゆる年頭の名刺交換会で塾内外に公表された。

 新学部設立の理由としては数多くのものがあったが、最大の理由は、流動する社会とともに学問が多様化する中で、学際的な新学部の設立が求められていることであった。当時私はまだ「新設学部」と呼ばれる商学部に所属していたが、その商学部でさえすでに設立から28年を経過していた。工学部が理工学部となってまだ日は浅かったが、既存のキャンパス内での学問の枠組みの再編成は物理的にも不可能に近い状況があった。

 湘南藤沢キャンパスの正式な校地取得は同年の3月末である。十数年前から東京都内にあった大学の郊外への移転が続き、その多くは八王子市に移った。都の西北、早稲田大学が所沢キャンパスを開設したのも数年前のことである。慶應義塾の場合、三田も東京の南部に位置し、日吉・矢上が多摩川を越えたところにあるためか、伝統的に神奈川県からの通学者が多い。

 そんな理由から神奈川県を中心とした校地さがしとなったそうだが、郊外型キャンパスのなると、それなりの広さが必要であり、しかも大学としての施設の建築が可能なところでなくてはならないし、交通の便も求められる。そんな都合のよい場所は当時首都圏西南部にはほとんどなく、相模鉄道が所有していた現在の遠藤の土地は数少ない候補地のひとつであったという。

 

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