1992年11月14日、15日  第1回秋祭(藤沢市民祭)

 

秋祭の開催は学生たちにとって念願のものであったが、それまでにクリアーしなければいけない問題が数多くあり、思ったよりも時間がかかった。

 学園祭というと、とかくヤキソバやたこやきを売ってサークルの資金集めをするというイメージが強い。SFCに日吉・三田のミニ版を作っても意味がないということで、まずひとつにはコンセプトを作るのに時間を必要とした。加えて、秋祭を企画するサークルや研究会等と、それらを統合する組織がきちんと出来あがっていないと、このような企画の実現はむずかしい。

 3年目に入ると一期生も3年生になり、研究会も始まり、ようやくいわゆる「おとなの大学祭」を開くことが可能となった。

 あわせて、地元藤沢市の側でも藤沢青年会議所を中心とした市民大学祭の企画があり、合同で企画しようという話になった。

 井関利明教授(当時総合政策学部長補佐)に委員長をお引き受けいただき、地元の協力などもえて、両者合同のイベントが実現した。おりしも昭和末期のバブル経済が崩壊した頃で、財政的にはあまり外部からの援助も期待できない状態だったが、イベント企画の学生たちが積極的に走り回って、今の秋祭の基礎を作り上げた。

 各種イベントの場所や時間の設定、模擬店の配置など、とかく学生間のトラブルの原因となる問題が学園祭にはつきものだが、七夕祭、クラブハウス棟運営などのノーハウから、実行委員たちはたくみに問題を解決していったし、参加諸団体も、皆で決めたルールに従って整然と行動してくれた。

 実行委員長を務めた、当時総合政策2年の本城慎之介君を中心に、すでに5月の段階で「学園祭を考える会」が開催され、その後半年にわたる地元代表・教職員・学生がいっしょになった討論、綿密な打ち合わせのもとに実現した企画であった。

 「やきそば、たこ焼き」という旧来の学園祭のイメージをうちやぶるべく、学生側も研究会やサークル単位でさまざまな斬新な企画を練ったし、市民大学祭の一環として、金安岩男氏のコーディネートのもとで「地球環境シンポジウム」が開催され、時を同じくして伊藤陽一氏他が担当する「日本マスコミュニケーション学会」が240名の参加者を集めて行われたのも特筆すべきことである。

 初年度は第一回ということで、三田祭直前に挙行されたが、このあたりの事情は三田側にも十分理解していただいた。

 

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