1987年6月  新学部設立準備委員会(第1委員会)発足

 答申案の提出間もなく、今度は具体的な実行プランを練る「設立準備委員会(21名)」が発足した。検討委員会メンバーで、その後SFCに移籍した6人はすべてそのまま残り、SFC移籍メンバーでいうと、環境情報の相磯教授とともに総合政策学部長の予定で経済学部の加藤寛教授が加わり、法学部からは英語の山崎努教授も委員となられた。

 答申案を出したあと、某ホテルで慰労会をかねたパーティーがあり、私だけでなく多くの委員はこれで自分の学部に戻って、という気持ちだったが、休む間もなく再び召集を受けたのには理由があった。

 新キャンパス開設は1990年に予定されていたが、それはあくまで予定であって、実際には1,2年ずれこむだろう、というのが共通の理解だったが、文部省の姿勢は、90年度以降の学部新設は「統廃合(スクラップ・アンド・ビルト)」、つまり新設の学部を作るのであれば、その分既存の学部を廃止するなり定員を減らすなりのバランスをとらない限り認めないというかなり強硬なものであった。

 第1回の会議ですでに加藤・相磯両学部長(予定)のもと、90年開設に向けての実行計画を作ってほしいとの話が石川塾長からあり、ハードな処女航海を終えて港に降り立ち、家に帰って一休みと思っていたところが、突然呼び戻されて至急目的地に向かって出航せよ、と命令された気分であった。「乗りかかった船」という表現があるが、こちらは逆に「降りかかった船」の世界である。

 事務局側の態勢もすっかり準備されていて、福留総合企画室副室長(その後室長、塾管局長)他の事務の方々も、文部省への申請を視野に入れてメンバーに加わっておられた。

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