まとめ:
書誌情報:北村行夫、『判例から学ぶ著作権』 大田出版 、1996年 pp.48-
まず一般論として、
「書体は基本的に、意思を伝達するための手段であるから、万人によって自由に利用できなければならない。つまり、特定の誰かに著作権を与えるというのは、その人に文字を独占させて、自由な意思の伝達をはばむことにつながるから、認められない」、
という考え方をのべ、 そうはいっても、
「誰かの書いた書のようなものは、文字そのものに美術性があるし、思想や感情を、書かれた内容じゃなくて、字そのものが表わしているから著作物性がある」。
といっています。
また、デザイン化した印刷用の書体について、
「書体というのは実用的なものだけれど、実用的だからといって美的な創作的表現をもてないということではない。実用的なものだって美的で創作的であることはできる。また、著作物であるかないかは、美的な価値の多寡ではなくて、単に美術の範疇に入るか入らないかで決まる。どれくらい美的か、とか苦労したか、とかは関係ない。」
といったあと、この特定の認定事実に関しては、
「タイプフェイスにはデザインが施されていることは確かだけれど、その組み合わせで情報伝達するという実用的な機能を期待されたものであって、そこに美の表現があるとしても、「みんなが読める」という制約を越えられない。だから、絵画や彫刻などと同じような美的な創作物と見ることはできない」
といっています。
丸写し:
4.美術の著作物(第10条(1)項4号)
形状、色彩、タッチなどからなる、思想感情の創作的表現である。絵画、版画、彫刻、舞台美術がその典型であるが、このほかにどこまでを美術の著作物に含めるかは、種種問題がある。
一つには、文字のような表現手段が美術の著作物となりうるかであり、他は応用美術の関係である。さらに、漫画については、固有の問題がある。
・文字
文字は、表現の手段であるから、万人によって自由に利用できねばならない。すなわち、ある特定のものに権利を占有させることになじまない。しかし、美術的な文字というものがありうるとすれば、これをどう扱うべきか。
文字及びこれに付随して広く用いられる記号(以下、これを「文字等」という。)は、さまざまな様態を取りうる書体を持って、はじめて、かつ、もっぱらこれによって表出されうるものであり、書体を伴わない文字等はない。すなわち、文字等については、その表出に用いられうる書体が文字等と不可分に存しているというべきものである。したがって、特定人に対し、書体について独占的排他的な権利である著作権を認めることは、万人共有の文化的財産たる文字等について、その限度で、その特定人にこれを排他的に独占させ、著作権法の定める長い保護期間にわたり、他人の使用を排除してしまうことになり、容認しえないところである(文字等が本来情報伝達の手段である以上、それは直ちに公に用いられるであろうから、他人がそれとはまったく独自に同一著作物を創作して著作権を取得するという余地は、まず考え難いし、万人共有の財産を独占してしまうことには変りはない。)。
--印刷用文字書体無断掲載事件 昭和58.4.26. 東京高等裁判所判決
こうした一般論をふまえた上で、同判決は、文字が美術の著作物になる余地をもみとめている。
もっとも、いま文字等の限度において考えるに、たとえば、書や花文字のあるもののように、文字を素材としてものであっても、もっぱら思想や感情に関わる美的な創作であって、文字等が本来有する情報伝達という実用的機能を果たすものではなく、美的な鑑賞の対象となるものである時には、それは、文字等の実用的記号としての本来的性格を有しないから、著作物性を有するとしうべきものである。
--同判決
デザイン化した印刷用の書体の場合はどうか。
文字等引いてその書体は、その本来の性質として、必要に応じ、大小、太細、濃淡などの様態、黒、青などの色彩をもって、種々の素材上に、思想または感情を表現する文を構成するための手段として組み合わせられて用いられべきものであることはいうまでもなく、この意味で、まさに実用的なものである。そして、一般に、実用的なものが、自ずから様々に美的な表現を包含するのは当然であり、現に、文字等の広く一般に用いられている書体においても、そのままで美的な表現を十分具えており、更には、日常個々人が作出する書体も、美的な創作的表現を様々に具えることが多いことは疑いの余地のないところのであって、むしろ、実用的なものこそ、美的かどうかは優れて主観的な面を有するものであるとはいえ、多くの優れた美をおのずと具現するものである。
そして、著作権上の著作物性は、美的な価値の多寡高低によって決せられるものではなく、単に美術の範疇に属するか否かによって決せられるものであって、文字等の書体について美的な表現を創作するにあたっての労作の多少などは、著作物性の決定については考慮されるべきものではない。
--同判決
右認定事実によれば、本件各文字及び本件文字セットは、それぞれ「一組のデザインとして、印刷、タイプライター、その他の印刷技法によって文を組み立てる手段として意図された」タイプ・フェイス(書体)であることが明らかであって、本件各文字にはデザインが施されているとはいえ、各文字、数字、その他の記号などは、本来的にそれらの組み合わせによって、情報伝達という実用的機能を期待されたものであり、それがため、そこに美の表現があるとしても、文字等についてすべての国民が共通に有する認識を前提として、特定の文字なり、数字なりとして理解されうる基本的形態を失ってはならないという本質的制約を受けるものである。この点からしても、本件各文字を美術鑑賞の対象として絵画や彫刻などと同視しうる美的創作物とみることはできない。
更に、本件各文字セット(各一揃い)を客観的に見ても、タイプ・フェイスとして文を組み立ててるうえでの実用的利用目的のために、それぞれのセットは、アルファベット、各種記号、数字の順に配列されたものとみられ、この配列形態によって、鑑賞の対象として絵画や彫刻などと同視できる鑑賞美術の著作物を創作的に表現したものとは認められない。
--同判決
一般にこうした書体は、タイプグラフィと呼ばれ、近時この法的保護が問題となっている。
そこで、判決が言うところの文字が「美的な鑑賞の対象となるものであるとき」とはどんな場合か。
世にいう書ないし墨跡などが美術の著作物となることにさして異論はあるまい。そこに記された文言内容に意味があるとしても、これらの書における文字の存在は、文言内容の伝達よりも、その形状や筆勢によって作者の思想・感情を表現することに重点があるからである。先の印刷用文字書体無断掲載事件の判例が「専ら思想または感情にかかる美的創作であって・・・・・」といっている場合の「専ら」とは、その意味である。
とはいえ、事はそれほど簡単ではない。書かれたものは墨跡と変わらないが、それを一字ずつバラバラにして一冊の本に印刷し、その文字を組み合わせて利用する時には許諾を要する、とした場合、果たして墨跡というべきか、印刷用文字書体と同機能であるから著作物性なしというべきか。
このような本を作成して利用者から一文字いくらという使用料を徴収していた場合のその本の書体の著作物性が争われたのが次の「動書」複製事件(昭和60年10月30日東京地方裁判所判決)である。同事件は、筆で書かれた独特の書体について、「本件書体は、思想または感情を創作的に表現したものであって知的文化的精神活動の所産ということが出来る。なお、知的、文化的所産といいうるか否かは、創作されたものが実用目的利用されようとも、そのことは著作物性に影響を与えるものではない。」としている
ただ、そのような書の場合には、複製権侵害の判断に当たっては、文字が意志伝達手段であるところに由来する特殊性を考慮することが必要となろう。
別件の「動書」複製主張事件では、「本件書は、原告がその思想又は感情を創作的に表現したものであって、美術の範囲に属する書としての著作物であると認める事ができる。」として著作物性は認めつつ、次のように述べている。
しかしながら、文字自体は、本来、著作物性を有するものではなく、したがってまた、これに特定人の独占的排他的権利が認められるものではなく、更に、書の字体は、同一人が書したものであっても、多くの異なったものとなりうるのであるから、単にこれと類似するからといって、そのことから直ちに書を複製したものということはできない、と解すべきである。
すなわち、複製権侵害の正否判断に際し、原告主張の著作物との同一性の認定について厳格な制限をしているのである。
あとは本書を参照してください。