1990年6月2日、3日、4日  SFC生初の慶早戦体験


▲はじめての慶早戦体験。

 この年の慶早戦は1勝2敗に終わったものの、慶早戦で勝ったほうが優勝ということでおおいに盛り上がった。しかもSFC生にとっては初めての慶早戦である。旧キャンパスでも学生券がなかなか手に入りにくい状況の中でSFCが加わったものだから、SFCへの割り当ては4,50枚程度というような悲劇的な話も聞かれ、学生担当としても頭を悩ませた。幸い福本先生のご尽力や慶早戦支援委員会などの配慮で、これも高橋寿佳君の記録によると600名の参加が可能になったとのことである。

 日吉・三田の規定では、平日の慶早戦については、第1時間目だけ授業を行い、2時間目以降は休講となっているが、SFCの1時間目が終わってから神宮球場にかけつけては試合開始ぎりぎりなので、全日休講というルールを作った。(三田祭準備の初日についても同様である)。

 SFCの多くの学生の関心は、両校の1年生ピッチャーにあった。早稲田(所沢キャンパス)側には甲子園の優勝投手がおり、塾の星は横浜緑ヶ丘高校からAO入試でSFC入った西田君である。早稲田側は人間科学部のスポーツ推薦、こちらは勉学優先のAOである。


1期生の慶早戦観戦をめぐるエピソード

 この慶早戦で、学生担当の私にとって面白いことが二つあった。

 周知のように、慶早戦終了後は塾生が銀座界隈で飲んで騒ぎ、最後は日比谷公園で恒例の噴水騒ぎを演じたりする。そのために学生部担当の教職員は毎回銀座をパトロールし、帝国ホテルの日比谷公園を見下ろせる一室を基地にして、警戒にあたっている。特にこの年は慶早双方の学生の盛り上がりが激しかったために、管轄の築地警察署から「銀座は今では慶應義塾の学生街ではなく、世界の銀座です」というきついお達しがあり、私自身も学生部藤沢支部長として、1年生だけのSFCの学生が何か事をおこさなければよいがとはらはらしていた。

 しかし、慶早戦についてだけは、悪いことを教える上級生のいない初年度のSFC生は楽であった。銀座の街を回ると、まだかなり早い時間なのに、興奮と、飲みなれないちょっとばかりの酒で頬を真っ赤にしたSFCグループが次々と駆け寄ってきて、「先生もいっしょに若き血を歌ってください」…肩を組んで何度も若き血を歌ったあと、これからどうするのかと聞くと、皆「帰ります」。SFC周辺の下宿までは2時間、上級生のいない高校4年生にとっては、すでにあまりにも刺激が多すぎる一日だったのである。

 帝国ホテルの基地に行く前に日比谷公園に立ち寄ると、ここでもSFC生が次々と出てくる。入って行くのではない。皆噴水にぽちゃんと入って、すぐに出てきたのだという。彼らもまた、もう満足したので帰宅するという。

 銀座、日比谷のSFC生が一様に口にしたのは「これでようやく自分が本当に塾生だということを実感できました」…日吉・三田でたくましく育って行く塾生たちを20年近く見つづけてきただけに、彼らのあどけなさがとてもかわいくて、目頭が熱くなった…

 もうひとつのエピソードは、慶早戦終了後に学生たちに聞いた話である。攻守交代の合間に、早稲田側の所沢を中心とした応援席から「藤沢の学生はいるか」と声がかかったという。SFCの学生たちはうれしくなって「おう!」と全員立ち上がった。そこにとんだのが「おまえら、専門学校だってなあ」…

 今となっては笑い話にすぎないが、当時のSFC生にとってはあまりにきついジョークであったようだ。SFC開設以来まだ2ヶ月がすぎたばかりの頃のことである。ただでさえ工事現場の中のキャンパスで、受けている課目といえば情報処理言語と、秋学期に始まるインテンシブ外国語への導入的な総合講座、あとは今でいうパースペクティブ課目、昔の一般教養課目だけである。中には真剣にSFCへの進路選択に疑問を持って悩んでいる学生もいると聞き、次の週の「言語a」の授業で、このエピソードをねたに説教をした。

 まずは「神宮球場で、早稲田の応援席からこんな侮辱を受けたそうだが」と切り出すと、皆うなずいている。そこでSFCでの情報処理言語や外国語インテンシブの位置付けをあらためて説明し、「なぜ所沢キャンパスの連中に向かって、おまえら体育学校だってなあ、と言い返さなかったのか」と言うと、爆笑がおき、気のせいか彼らの表情が晴れ晴れとしていた。

 以上、ライバル校の早稲田大学への若干失礼な表現もあるが、私の愛する母校でもあるので、お許しいただけるだろう。

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