「学問は永遠の工事現場」






 キャンパスの中に工事現場がある、というのはどこでもよくある光景だが、当時のSFCはそんなものではなく、工事現場の間をぬって勉学の環境がある、といった状況だった。何があっても1990年度4月をもって開設せよという文部省からの指令がある以上仕方がない。

 どこが完成していて、どこが工事現場だったか、といった説明をしてみてもあまりイメージがわかないだろうから、正面の階段を登るところから初年度へのタイムスリップキャンパスツアーを始めてみよう。

 道路の反対側に予定されているゲストハウスもテニスコートも、4期にわけた工事では一番後回しにされているので、工事そのものの形跡もない。そのぶん、「緑地ゾーン」という名称は今以上に性格であるかもしれない。キャンパス中の随所にいたと思われる狸もこのあたりに緊急避難をし、よく刈込方面の周回道路に飛び出しては交通事故にあったと聞く。茅ヶ崎方向から通う同僚は、その狸と同じルートで、今のテニスコートのあたりから茂みの抜けてバスを利用していた。

 階段をあがると、今の中庭とメディアセンターにあたる部分は巨大な工事用フェンスでかこまれ、右の本館に行くか、左のオメガ館に行くかの選択しかない。初年度は1年生しかいないので、朝のバスを降りた学生も教員もまずは本館に入る。学生は掲示板を見、教員は郵便物を回収するためである。

 そのあと、全員がオメガ館と工事現場の間を通って生協前の中庭に向かう。これしか通路がないからである。午前中は、春学期は情報処理言語の授業、秋学期はインテンシブ外国語しかないので、ほとんど全員の学生がオメガ館の前は素通りだ。通りすぎると、そのまま池に向かって斜面を下る。カフェテリアももちろんなく、工事現場が池のぎりぎりのところまで張り出していた。

 オメガ館の終わったあたりから池の斜面を下り、水辺ぎりぎりに生協前のテラスに続く幅1間ほどの板張りの仮設通路が続いていた。そこをまずは小教室・研究棟のあるカッパ、エプシロンのあたりに向かう。これが朝の全学生と教員の唯一の行軍進路である。

 本館とオメガ館以外で完成していたのは、カッパ館、エプシロン館、イオタ、オミクロンの後ろの建物、それに生協と、今の食堂部分だけである。食堂といっても、今の学生食堂の南ウイングは仮のメディアセンター、北ウイングにはトレーニング機器が置かれ、体育館の役割を果たしていた。あとは…要するに何もない。食堂は教職員、学生が今の教職員食堂を共有した。

 学生のたまりばも生協前のテラスしかなく、そこでキャッチボール、アメフト、ラクロス等の練習をする学生が現れ、学生担当としては日吉・三田同様に「球技禁止」の措置をとることになったが、ほかにする場所がないのだから、あまり強いことは言えない。

 午後になると、多くの学生の流れは今度は逆にオメガの方に向かう。今でいうパースペクティブ課目、当時の一般教育課目がすべて午後に設定されていたからだ。授業がひとつ終わるためにそこからの逆流も多くあるが、通路はひとつしかない。一期生はお互いどうしよく知っているというが、1年生しかいない世界で、一日中狭い直線の世界を行ったりきたりして、知り合いにならないほうがおかしい。教員も同じで、私のように大教室の授業を担当していなくても、この通路の往復で何度「こんにちは」、というよりもSFCの初期からの習慣で、午後の3時ごろでも「おはようございます」をくりかえしたことかしれない。

 「高校4年生」これが何十年も大きな大学のキャンパスですごした私たちが共通して味わったものであった。高校のハード教育環境というのは、クラスルームと職員室などを廊下で結ぶ直線の世界で、そこで毎日他のクラスの友達や、あまり習ったこともない先生ともすれ違い、何らかのコミュニケーションをとりあう。

 最近は少なくなったが、当時毎日のように一期生から耳にした代表的な言葉は「放課後」であった。「先生、お話したいことがあるので、放課後にうかがってもいいですか」、学生どうしでも「放課後にミーティングをやろう」などである。日吉・三田はもちろんとして、幼稚園、小学校から続くどんな良家の子弟をあずかる大学でも耳にしたことがない言葉であった。

 こんな高校4年生の子供たちが毎日2時間もかけてSFCに通い、一日中鴨池のほとりの通路をいったりきたりしている。しかも全国から集まった本当にすばらしい若者たちである…これもまた世界各地から集まった優秀な若い先生方の厳しい指導を受けて、グループワークやレポート作成に熱中し、「夜間残留」と称して連日特別教室で勉強している姿を見て、私ひとりぐらい、古きスタイルの学生文化を伝える人間がいてもいいのではないかと思った。

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