1990年10月10日  第1回体育祭

SFCに体育祭なるものがあったことを記憶する人は少ない。今となってはまさに幻のイベントである。

 翌年秋の体育館完成に先駆けて、とりあえずグラウンドが使える状態になった。「とりあえず使えるようになった」というのは微妙な表現である。というのは、それ以後もグラウンドの環境にさしたる変化はないからである。

 「グラウンド」という言葉でだれでもが連想するのは日吉のそれである。茶色のアンツーカーのトラックに囲まれた芝生のフィールドがあり、斜面には観覧席…できれば夜間照明も…

 ところがQ&Aで述べるような事情で、あそこは水が干上がった池だというのが施設上の設計理念である。池の底にはアンツーカーも芝生も不用である。水はけを考えてのことか、すべて砂地なので、ラグビーやアメフトなどのサークルの怪我を心配したが、基本的な日常練習はSFCでやり、試合などは秋葉台のグラウンドを使っていた。

 体育祭は体育の日の10月10日を選んで行われた。休日のため、参加者は一割強の150人ほどで、教員はほとんどいなかったが、SFCにはじめて開かれた広大な空間ができた喜びからか、学生たちは水を得た魚のようにグラウンドいっぱいを走り回っていた。

 体育祭とはいっても、玉入れに一喜一憂するまさに小学校なみのものだ。「三輪車競争」まであった。周回道路がほぼ完成していたので、学生たちは自転車レースをやりたいと言う。こればかりは危険が多いので私は反対した。体力をもてあましたあの若い連中が本気になって周回道路を疾走したひには何がおきるかわからない。そうしたら、突然に今度は三輪車となった。かも池に大きな板を並べて、手こぎのカヌー競争というのも真剣に検討したが、結局は三輪車におちついた。今は大きく巣立っていったSFCの一期生たちも、当時は本当に子供だったのである。

 当時まだ20代だった助手の楠本さん(現環境情報学部助教授)につられて、まだ40をすぎたばかりの私も400メートルリレーに出場したが、30メートルも走ったところで後悔しはじめた。「これでも高校時代は中距離の選手だったんだぞ」いばって走りだしたものだが、100メートルがこんなに長い距離だと初めて知った。

 スポーツには自信があるSFC生が数多く参加した第1回体育祭だったが、この日の一番のヒーローは、誰もが認めるごとく、この祭を長期間にわたって企画した実行委員長の小林正忠君であった。

 


▲体育祭全景。

 最後に挨拶に立った小林正忠君は涙をこらえて何度も言葉につまった。だが、その気持ちは参加者の全員が共有していた。皆も同じことを考えていた。目の前の体育館も、サークル棟も、中央の大学ゾーンも、グラウンドから見える限りすべて工事現場である。でも、そこで自分たちの手で何かを作り上げた、そんな喜びがあったのだと思う。

 「幻のイベント」と書いたが、SFCの本格的な体育祭はこれが最初で最後である。2年目には「メビウス祭」と称して、周回道路を利用したスポーツ行事が行われたが、それを最後に何故か「体育祭」なるものは消滅してしまった。

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