「私語」の問題

 これはSFCだけではなく、1990年当時全国の大学で問題とされたことである。新聞等のマスメディアでも再三にわたってとりあげられた。今の少子化問題とは逆に、おりしも戦後の第二次ベビーブーム世代が大学に入学し始めた時であり、入学試験の競争も激しく、SFCのいわゆる偏差値も、2年目、3年目には某予備校の資料によると70を越えるという状況にあった。こうした問題もからんでのさまざまな社会現象も関係していたのかもしれないが、そこにいかにもSFCらしい状況が関係していたのも面白いことだった。

 「学生たちの私語が多い」、こんなことを頻繁に耳にするようになったのは、キャンパスが始まってすぐのことである。学生の私語というのは、それをやめさせるのが上手な教員とそうではない教員とがいる。教育経験が長ければ、その対策も心得ている。だが、その教育経験ではずいぶん長いはずの私でも、ちょっと多すぎるなと実感した。私語をやめさせるのに、これまでの経験の倍以上の時間がかかるし、ほっておくとまた始まったりする。

 そこである日の「言語」の授業で、「今日は授業はやらない。SFCの私語の問題について徹底的に討論しよう」と提案した。小林栄三郎先生や、井上輝夫さん、孫福事務長なども参加してくれた。「言語」の授業なので、これも重要なテーマになるし、受講生もΩ11が一杯になる数なので、1年生全体への影響もあろうと考えたからだ。

 学生たちも真剣に討論に応じてくれ、反省をこめながらも、率直な意見を伝えてくれた。その中から「いかにもSFCらしい」という当時の私語の理由を2,3紹介してみたい。

工事現場だらけで、まわりに喫茶店もなく、授業をさぼってもいる場所がなく、結局友達といっしょに講義に出てしまう。

コメント;たしかにSFCの大教室での講義課目への出席率は他のキャンパスと比較して、非常に高い。

一期生だけが狭い空間で毎日いっしょに生活しているので、知り合いも多く、ついおしゃべりになってしまう。昼休みの時間もないので、オメガの講義室がコミュニケーションの場と化してしまう。

大学の授業は講義ノートを読み上げるだけだと聞いていたが、先生方が面白い話をしてくれたり、SFC設立の裏話を語ってくれたり、興味ある教材を提示してくれたりするので、ついそのまま、それをめぐってまわりの友達との会話の世界に入ってしまう。

 「授業以外に行く場所がない」というのは、今もさほどはかわっていないかもしれないが、当時としてはまさに信実であった。学生食堂はなく、池のほとりはまだ黒土だらけの湿地帯、あとはフェンスで覆われた工事現場…普通の大学での、出席をとらない大教室の講義は、受講者数の数分の1程度の講義室で十分というのが常識だったが、SFCでは若干定員オーバーで出発したのにもかかわらず、教室内の階段に座る学生や、立ち見の学生がでたりして、あわてて今もあるアームチェアを運び込んだものである。


 「面白い話」というのは、ふたつのタイプにわかれるだろう。

 SFCでは大学外の第一線で活躍されている研究者・芸術家や、企業等での経験をつまれた著名な方々を教授陣として迎えたが、そこで展開される話はこれまで一般的だった「高校・大学」の教育の場でのそれとはずいぶん異なっていた。そこで展開されるプリゼンテーションなるものも、普通の大学1年生に提示されるものとは当然違う。
 いわゆる「専門課程」も大学院もない頃、先生方はこれまでの国際レベルでの研究成果を1年生の学生たちに示し、学生たちもそれには感動したものの、まだ内容的についてゆくだけの学力はなく、その周辺をめぐってのおしゃべりに入ってしまったということか。

 一方、特に日吉・三田からSFCに移籍した私たちの場合、どうしてもSFC設立についての思い入れが多く、「日吉・三田・矢上等では従来…だったが、SFCでは…」という、早く言えば「自慢話」がいくつもあったのも事実であろう。
 かつて所属した学部や、そこでの同僚たちにはずいぶん失礼な発言もあったかと思うが、心の中に不安をかかえつつ、藤沢の新キャンパスに通う若者たちにこうしたメッセージを送る必要があったし、私たち自身、旧キャンパスを離れて藤沢に移る以上、それなりの思い入れもあった。
 初年度から数年はこうした雑談が学生たちのSFCでの勉学に対するもモティベーションを鼓舞する要素となったものだが、逆に、盛り上がった数百名の学生を冷静に授業に集中させるのにもそれなりの時間がかかった。

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