1987年11月23日   カリキュラム案を公表

 1990年4月開設をめざしての半年間の最も大きな作業は、具体的なカリキュラム作成の作業と、それにあわせた、主として外部からの人材の確保であったと記憶する。検討委員会で作り上げた理念をどう実行に移すかということである。

 私が担当した外国語インテンシブプログラムにしても、実践的な外国語教育の理想をとなえることはだれにでも出来る。必要なのは、それをSFC全体の教育体系の中でどのように位置付け、具体的に実行してゆくのかということであった。また、どんなにすばらしい講座を作っても、それを担当できるすばらしい人材がいなくては機能しない。

 また、文部省への申請段階では、具体的な教員名や職位なども付さなくてはならない。開設までにはいい人を見つけておきます、といった具合にはゆかない。そんなことで、いつからか三田の会議室と平行して、ホテルでの合宿作業が多くなった。それも、深夜までの会議で、都ホテルだと、加藤寛先生が「おなかがすいたね。鴨そばでもとろうか」で一時中断…私のような酒好きの人間にはありえない世界で、部屋に戻るなり、たいていはひとりで、時には同好の士と一杯やってすぐに寝た。翌朝また続きがあるからだ。

 余談だが、この鴨そばには小ぶりのおにぎりがついている。加藤先生はいつもこれをきれいに包んでうれしそうに部屋に持ち帰られた。夜食にされるのだそうだ。

 SFCへの参加を合意された先生方との面接のようなものもずいぶんあった。外国語担当の方々とはもちろん全員お会いして、新設キャンパスの理念や、具体的プログラムをお話し、既存の大学とは違ったハードな教育環境におつきあいいただけるかなどの意志を確認したりもした。加藤、相磯両学部長、井関、高橋両学部長補佐(当時はまだ予定)も、常にどなたかが同席くださった。

 これもまた余談の加藤先生をめぐるエピソードだが、ある日の面接で、候補者から給与面での質問が出たとき − 「塾からの年収でいえば、関口さんで3000万円ぐらいでしたっけ」…あわてて、「先生、そんなには出ません」と申し上げると、「ああ、そうか、300万ぐらいだったよね」…これではだれもSFCに来てくれなくなるので、「そこまで低くはありません…このあと事務局の方から待遇についての具体的な説明がございますので…」、候補者の方が???で事務局の待つ別室に退席されたあと、先生に苦情を申し上げて、二人で大笑いしたものである。

▼NEXT