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2005年01月 アーカイブ

2005年01月01日

新年

明けました。おめでとうございます。

実家に帰ってきて、びっくりしたこと。北に進んでいくに従って、道路脇にどんどん雪が積もっていたこと。で、実家近傍にきたら、もう道路が凍結していて、とんでも無い様子になっていたこと。
家の隣が公園なんですが、ゆきだるさんがいましたよ。

横浜、雪なんてこれっぽっちも積もって無かったよ?
しかし、デルソル。雪に合わないなぁ。

2005年01月10日

MAMMA MIA

マンマミーア。

全編、ABBA(二個目のBは裏返し)の曲で構成されているミュージカル。世界中でロングヒットを飛ばしている作品である。もう、3回見にいった。何回見ても、面白い。基本的に、スラプスティックコメディは好きである。まあ、元が英語であったものを日本語の歌詞で歌っているので、冷静に考えるとおかしな感じなのだが、劇団四季の歌唱力でなんとなく持っていかれてしまう(笑)。
最後に見たのは、東京公演の千秋楽の1週間前、だから昨年の11月頃なのだが、最近また自分の中でブームが来た。

ストーリは、地中海に浮かぶ小島でホテル経営を行っているシングルマザー、ドナの娘ソフィが結婚式にお父さんを呼びたい!! という願いから幕があがる。しかし、そうは簡単に行かないのだ。ドナはソフィのお父さんのことを話したがらない。しかし、ソフィは、母ドナの日記を盗み読みして、自分のお父さんの可能性がある人物を突き止めた。

これが、3人いるのだ(じゃーん)。

ソフィは、「逢ったら分かる」という楽観的な姿勢で、ドナに内緒で3人全員に結婚式の招待状を出してしまう。
何も知らずに、ドナの娘の結婚式に招待されたと思った男3人は、結婚式の前日に同時に島にたどり着く。突然の再会に動揺するドナと、ドナの昔の友人(ドナが昔歌姫だった時のコーラスの二人)、さらにはソフィと婚約者スカイを巻き込んで、結婚式に向けて大騒動のお父さん探しが始まり、さらにはドナにも心境の変化が...

というような感じである。もちろん、ストーリ自体も大変素晴らしい。暖かい気持ちになる。しかし、特筆すべきは選曲の妙。もちろん、歌にあててストーリを書いているのだろうけど、それにしても素晴らしい。

ソフィがお父さん(候補)の3人に出会った時に歌う「Thank you for the music」、ドナが3人の元カレに突然再会した際の、驚くと同時に胸の高鳴りを抑えられない気持ちを歌う「Mamma Mia」。

Mamma mia, here I go again
My my, how can I resist you?
Mamma mia, does it show again?
My my, just how much I’ve missed you
Yes, I’ve been brokenhearted
Blue since the day we parted
Why, why did I ever let you go?
Mamma mia, now I really know,
My my, I could never let you go.

見事である。
特に好きなのは、サム(お父さん候補の一人)が、ソフィにアドバイスを送るシーンで歌う「Knowing me, knowing you」。

Breaking up is never easy, I know but I have to go
Knowing me, knowing you
It’s the best I can do

さすが、離婚経験のあるサム。結婚が必ずしも幸せになるとは限らないという教訓を、身を持って結婚式当日の娘に伝えるのである。

他にもたくさん見所はある。ドナとサムが、お互いの気持ちを切々と歌い上げる「S.O.S」や、ドナが寂しさをサムにぶつける「THE WINNER TAKES IT ALL」等、かなり魂を揺さぶられる。

そして、カーテンコール。失恋を歴史的敗北にたとえてさわやかに歌い上げた名曲「WATERLOO」の軽快なリズムにのって、観客は皆幸せな気分になって帰るのだ。

Waterloo - I was defeated, you won the war
Waterloo - promise to love you for ever more
Waterloo - couldn’t escape if I wanted to
Waterloo - knowing my fate is to be with you
Waterloo - finally facing my waterloo

とても前向きな、やさしい気持ちになれる作品である。

2005年01月13日

今日のお言葉。

「責任と責任感の違いがわかるかい?」しばらくして、犀川が言う。
「字数が違うわ」萌絵は咄嗟に冗談を言った。 犀川は笑わない。
「押しつけられたものか、そうでないかの違いだ」

大好きな作家の一人、森博嗣の犀川・萌絵シリーズから。強制するのも、されるのも、あまり好きではない。何かに縛られるのも嫌い。

だから、他人のせいにしてはいけないと思う。

2005年01月14日

決戦は金曜日。

本日、朝から晩まで会議・会議・会議。
本当に会議が多い。考える前に、出来ることはたくさんあると思うのだが、なかなかそうは行かないもの。Quicker than the eye。

「伝えたいものは、言葉で言いなさい、それが、どんなに難しくても、それ以外に方法はない」

「何故、役に立たなくちゃあいけないのかってきき返す」「だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね…。」  (犀川創平「冷たい密室と博士たち」)

そう、面白ければ、良いんだけどね。

勝つことばかり考えている。どうやって負けたら良いのかも、考えなくちゃ。それが名人というものさ  (犀川創平「笑わない数学者」)

と、犀川先生のお言葉にもあるように、最善でなければ、次善の選択肢を常に用意し、準備しておくことが重要。

二人は、数字の11よりも接近した

世の中を変える方法は3つある。現象(現実)を変える、観察方法を変える、そして、常識を変える。常識を変えるというのは、つまり、パラダイムシフトということか。

2005年01月19日

Camera, Camera, Camera

「でもほおづえついて僕を見て ちょっと唇とがらせて このままでいたいと僕は思うから」(フリッパーズギター「カメラ!カメラ!カメラ!」より)

基本的に、精密機械が好きである。それもクラシックで、贅沢で、薀蓄の多いものが。そういう機械は、見た目も美しく、オーラを発している。性能が良い方が美しい。機能が優れている方が美しい。あるいは、美しいから性能が優れているのかもしれない。または、美しいという事が機能なのかもしれない。

カメラは好きである。特にマニュアル機が好きである。何が良いって、なかなか上手く写らないのが良い。狙った通りの写真が撮れると、自惚れられるのが良い。そして思いもしない写真が撮れているのが良い。

でも、何よりも、あのシャッターの音が良い。撮影した後の巻き上げの感触も捨て難い。

修士の学生の時に、人生において三度目のカメラブームが来た。その際に買った愛機、オリンパスpen fは、もう、ちょっと、凄いのだ。

まず、古い。ものすごく、古い。1963年のカメラである。カメラの方が10歳年上。でも、非常に、美しい。綺麗。一眼レフなのに上面に突起がない。

そして、35mmのハーフ。24枚撮りで48枚撮れる。だからファインダーを覗くと、普通の位置で縦長の視野。単純に考えると解像度はフルサイズの半分という事だが、現在のフィルムの性能なら十分なクオリティ。最高なのは、音。シャッターの音。カシャ、というカタカナの音がする。空シャッターで十分楽しい。そして、巻き上げ。二回巻き上げである。そう、シャッターを一回押すと、レバーを二回巻き上げるのである。その角度は110度。かなり楽しい。

機械的にも、シャッターはメタルロータリーフォーカルプレーンという、チタン製の半月型円盤を回転させるもので、常にシャッターが全開になる瞬間がある機構を採用している。これは現在のカメラの限界よりも高性能で、全シャッター速度でストロボとのシンクロができる。まあ、基本的にストロボは使わないのだが。レンズも十分に明るく、f1.8。38mmだけれど、通常のカメラに換算すると55mm程度になる。

しかし、やはり動態撮影にはAFの方が良いし、リバーサルの撮影には35mmの一眼レフを使いたくなる。そこで購入したのが、NIKON F801sである。これは、PEN Fの対極ともいえる、電子の要塞。1/8000秒でシャッターが切れ、5点測光システムによって露出もほとんどカメラ任せで良いのである。撮影者は、構図とシャッターチャンスに集中できる、という訳で、だいぶ楽できる。

だからといって、必ずしも良いものが撮れるとは限らないのであるが。

そう、思えば、この第3次カメラブームの時に、今のデジカメ構成の基礎は確立されていたのである。本格一眼レフと、小型(スタイル重視)カメラというフォーメーションが。

2005年01月20日

The End of the Beginning

昨日の続き。

ずっと写真は銀塩で撮ってきたのだが、転機が訪れる時が来た。
CONTAX tvs difitalの出現である。カールツァイスT*のレンズを搭載したこのコンパクトデジカメ(現在のコンパクトデジカメから考えれば結構な大きさである)、実に自然に、ドラマチックな描写をしてくれるのである。AFの性能も満足出来る出来栄え。

難を言えば、フォーカスリングが無いのでマニュアルでピントを合わせずらいことだが、これはデジタルカメラの利点の一つ、”たくさん撮って、良いものを選ぶ”作戦でカバーできる。
これは非常に重要なポイントで、良い写真を撮るためには、多くシャッタを切ることが重要である。もちろん、一回シャッタを切っただけで傑作がとれることもあるかもしれないが、それはもう、奇跡なのだ。
シャッタを切った回数だけ、確実に良い作品に近づけるはずだが、これを銀塩でやろうとすると、もう富豪にならないと無理。シャッタを切った瞬間に「ちゃりーん」って音がするのだ。現像の。もちろん、フィルム代も掛かる。これを気にしないでシャッタを切れるだけでも、デジタルの優位性はかなりのものだろう。

こうした理由から、今ではフラグシップの一眼レフもNIKON D70となった。一眼レフの良い所は、シャッタを切った瞬間、つまり写真として見える映像は、ミラーが上がっているから撮影者には見えていないところ。大切なのは、イマジネーション。人生に似てる。研究にも似てる。

subway_FT.bmp

2005年01月21日

more than words

卒論生、修論生の皆が頑張っている。

特に、卒論生にとっては、自分の意見を他人に伝えるためにこれだけ長い文章をまとめたり、長時間のプレゼンテーションを行う機会であるため、大変な労力とプレッシャであろう。

これまでの人生から得たわずかな知見を述べると、何かを考える時のコツは、「まず何を考えるべきかを考える」ことだろう。何を考えるかを十分に吟味し、正解に近い思考の筋道が発見されたら、問題はほとんど解決されたと思って良い。

とはいっても、当事者になったら、そんなに上手くは行かないことも良く分かっている。最後のコツは、限界だと思っていても、そこから一歩でも前に進む勇気を持つことだ。

ここまでだと思ったときもう一歩ねばれ!それで勝てないような訓練はしてない

終われば、良い経験だ。

2005年01月22日

本日のお言葉。

「目標が決まったら 後はその距離を縮める作業なだけだから」
(おかざき真里「シャッターラブ」)

何かを見失った時は、まず、なにが目標だったかを考える。必要の無い回り道はしなくて良い。何かを失うと何かを手に入れる事があるが、偶然である。何も失わずに手に入れるほうが遥かに優れている。
堂々と、王道を行くべきだ。


「本当に大切なことは一人で考えなきゃいけないんだ」
(おかざき真里「1996年の夏休み」)

そして、本当に大切なことは、他人にはいえない。


「はたちを過ぎたら好きなこと以外しちゃいけないのよ」
(おかざき真里「1996年の夏休み」)

忙しい状態というのは、恥ずかしい。
やりたくないのなら、しなければ良いのだ。そのために大人になったのだから。何時だって、やりたいことに優先順位をつけて、その一番上のことをしているはずなのに、つい言い訳を考えてしまう。やりたくないことをやっていられるほど、暇じゃない。

2005年01月23日

the night is still young

「正しい知識と深い理解は、外から見ると僅かな笑顔に過ぎない」

大好きな言葉。

卒論生の発表練習にずっと付き合っている週末。なんというか、疲れることは疲れるんだけど、まあ、悪くは無い。少しずつ、確実に良くなっていくものを見るのは、清々しい。

でも、欲を言えばもっと早く準備できないものかなぁ(笑)。
ちなみにこれが、正しい知識と深い理解から来る笑顔って奴。

何故出来ないかって?

本人達は、十分に早く準備しているつもりなのだ(どどーん)。

この理解はおそらく間違いない。自分が学生だった時に、そうだったから(笑)。
これも、僅かな笑顔の部類だ。

忘れてはいけない。はじめから名人や達人などいない。
問題は常に存在している。無いと思っているのは、認識できていないだけである。
不滅のものがあるとしたら、きっと思想である。

卒論発表、終わる。

卒論生の発表が無事に終わった。良く頑張りました。

外は、雪。発表会場には暖房設備が無いという、シベリアのラーゲリ(収容所)のような劣悪環境。
午後からは我らが指導教官、JM氏の私財によって暖房機器が投入され、何とか生きながらえました。

全ての終わりは、また、始まりでもある。

製本まで頑張ろうねー。にっこり。

写真公開、はじめました。

カメラが好きだ、という話は以前にしていたと思う。

基本的には、写真が好きなのではなく、”カメラ”が好きなのである。構図を決めて、一瞬を切り取る、その瞬間が良い。ちょっと背筋が伸びるような、そんな感覚がある。適度なシャッターの感触と、メカニカルな作動音があれば最高だ。

しかし、そこで満足してしまう。

撮り終わった写真には、もうあまり興味がなくなってしまうのだ。撮った、という事実が胸に残れば、それで十分な気がしていた。銀塩写真であれば、まず現像に出さなければ写真は見ることが出来なかったし、その写真をきちんと整理して収納しておかなければ、見たい時に見たい写真は見ることが出来ない。

しかし、デジタルであれば、ふとした瞬間に手軽に過去のお気に入りの瞬間を楽しむことが出来るのだ(のーん)。ちょっと意図的にそぐわない音を入れてみた。明らかに失敗した。

また、その中からとっておきをPCの壁紙として利用したりすると、常時そこはかとなく、作業の縁の下の力持ちとして、幾重にも重なったwindowの隙間からけなげに顔を出したりしている。

写真は、その人が何をどう見ているかを表している。つまり、何を考えているかが分かってしまうような気がして、他人に見せるのは、少し恥ずかしい。抵抗が無いわけではない。でも、何かの折に見てくれた人が、何か感想を言ってくれるかもしれない。そんなよこしまな気持ちが胸をよぎった。

というわけで、photo archiveを作成してみた。右のカテゴリーにもLINKを作ってみたりして。

お暇な方や、興味がある方は、ちょっと覗いてみて下さい。

paris_title.bmp

"paris, Nov. 2003"
CONTAX tvs digital
Eiffel tower, paris/France

2005年01月26日

苦手なもの。

寒い。

とにかく、寒い。寒いのは、苦手である。なんというか、生命の危機を感じるのである。
朝起きるのも苦手である。なんで、ベッドの中という至福の環境を捨てて、外に出なければいけないのか。外に出て行ったって、待っているものはほんの少しのシニカルな笑いと、多くの苦難である。嫌な思いをすることの方が多い。なんでそんな思いをするために、わざわざ起きて行かなければならないのか。

間違っている。「今起きるくらいなら、死んでも良い。」というくらい、大げさな葛藤を、毎朝ベッドの中でもぞもぞしながら繰り返しているのである。

外が寒かったら、なおさらだ!!
今日なんて朝起きたら、雪が舞っていた。・・・こうなると、話が違う。ちょっと、ワクワクする。普段はシャワーを浴びて、洋服を着てからじゃなきゃかけないメガネを光の速さで身につけ(しゃきーん)、窓を開け、自分の体を両手で抱きかかえながら、「おー、寒い寒い。」なんて独り言をつぶやいたりするのである。そもそも、雪が降ってるんだから、寒いに決まってるし、だったら窓なんて開けなければ良いのに。人間は矛盾に満ちている。

さらに、唐突だが、バスが好きじゃない。これはこれまでにも何度か繰り返して主張していることだ。特に夜の路線バス。あのなんともいえない薄ぼんやりした青みがかった照明とか、それに照らし出された椅子とか、あの微妙に磨かれている床とか、もう、たまらなく怖い。
窓の微妙な透明度や、つり革の不定期に非同期な揺れ等も、受け入れがたい。ディーゼルエンジンの振動も、粗野で生き物じみていて、受け入れがたい。
なんとなく、この世のものでない感じがするのだ。

見知らぬ他人同士が息を殺して乗っているあの空間が駄目なのだ。時折なるブザー音。機械的なアナウンス。すべてが芝居じみていて、虚構っぽくて、自分以外のすべてが自分を拒絶しているような圧迫感がある。恐ろしい、と感じてしまう。

昼間ならまだ良いけど、夜、それも窓にうっすらと水滴がついていて外が見えないような寒い夜は絶対避けたい。あれは異世界の住人の乗り物が、この世界に贄を探しに来ているのだ。だから、そんな夜に運悪くバスに乗ってしまったら、決して口をきいてはならない。どんなに運転手に話し掛けられても、乗客に触れてしまっても。あなたが選ばれたくないのならば、だが。

と、途中からタッチを変えてお届けしてみたりする、そんなblog。
エンタティメント性を高めようと頑張っているのだが、でも、まったくコメントがつかない(笑)。読み物風よりも日常絵日記風の方が良いのかなぁ、実は。

二つの願い。

冷たい雨の降る朝でしたが、先ほどふと外に出たら、雲間から陽が差していました。

ちょっと得した気分。

いつも長いというご指摘を受けましたので、たまには、シンプルに日記風。

2005年01月27日

The Sheltering Sky

微妙に胃が痛い。

もともと、2年前に胃下垂 & 胃炎であることが判明しているのだが、最近、その胃下垂が進行してきているような気がする。整体とかにいって骨の位置とか直したら、一緒に胃も定位置に定まらないものだろうか。大先輩、K氏の紹介によれば、鍼で引っ張りあげて直す、という治療法もあるようだ。
相当、恐ろしい。治療の基本は腹筋をつけることらしいのだが、いやはや。

何枚か写真を撮ったので、photo archiveに。

「あー。先生、妬いてるでしょう!」「やいている?」「女へんに石です。」(森博嗣、「封印再度」)

本当のことなんて、とても、誰にも、言えやしない。
片目を瞑って、人差し指を、ちょっと尖らせた唇の前に。「内緒って、何が?」「秘密です。」

s_sky.jpg

"the sheltering sky"
CONTAX U4R
Uchisaiwai-cho, minatoku/Japan

2005年01月28日

赤鉛筆は、葡萄酒の香り

昨日、卒論生が、学部生に指導している姿を見て、ちょっと、じーんと来た。

この前まで自分達が指導されていた事のエッセンスを、ちゃんと後輩に伝えていたのだ。いや、もしかしたら、ちゃんとは伝わってないかもしれない。ポイントはずれてたかもしれない(笑)。でも、ちゃんと頑張って教えてたのだ。

思えば、修士の学生も卒論生にちゃんとコメントをしていた。そして、修士の学生には、博士課程の学生からの指導があった。

ファカルティに教えてもらうのとは、またちょっと違う雰囲気なのだ。「一緒にやっている。一緒に研究している。」という雰囲気の中での指導である。力関係に大きな乖離があるわけではないが、経験の分だけ、余裕がある。

また、他人に教えることで、たくさんの事に気づく。そうやって、教える方も成長できるのだ。

だから、何かを問われた時は、なるべく相手と同じ目の高さにおりて、一緒に答えを探すようにしたいと思う。上から答えを降らせるよりも、一緒に答えを探した方が、確実に相手の力になるはずだ。もちろん、その時には、少しのユーモア(分かりにくいとの指摘多数)と難解な比喩は必須である(笑)。

今度、論文に赤入れする時に赤鉛筆を使ってみようかな。優しい気持ちになれるかもしれない。

こうやって想いや、情熱や、思想は、目には見えなくてもちゃんと次に伝わっていくのでしょう。

(最後になりましたが、M氏に謹んで追悼の意を。)

2005年01月29日

Long After Midnight

たいてい、他愛もない会話が盛り上がるのは、夜半を過ぎた頃である。

特に脈略も無く、目的も無く、何も祈らず、何も願わず。そういった目的の無い、いわば思考の引力方向に逆らう事無く進んでいく滑空感は、魅力的である。
でもそうなってくると、もともと目的が無いだけに、明確な終焉というものは見出しにくい。そう、状態は「とうに夜半を過ぎて」なのだ。相手は今日は早起きかもしれないぞ。もしかしたら、明日朝早いのかもしれない。

「もしかしたら、眠いのかもしれないし、ああ、こんな話題、つまらないかも。あ、でもでも、今終わりを切り出したら、つまらないと思ってたと思われちゃうかな?こちらは楽しいけど。うーん....」

などと思案しながら、進んでいったり、戻っていったりする(笑)。

「巡り合いなど ただの偶然 別れるために出会えるだけで
すべてが運命だ」なんて もう 言わないで(橘いずみ, 「ハムレット」)

まあ、そうは言ってもなかなか達観できないものなのです(事実)。

「勝つことばかり考えている。どうやって負けたら良いのかも、考えなくちゃ。それが名人というものさ。」(犀川創平, 「笑わない数学者」)

その通りです。犀川先生。

SYNCHRONIZED ROCKERS

SFC近傍では、続々と締め切りが終わり、皆ほっとしたような雰囲気である。でも、まだ締め切りを迎えていない精一杯頑張っている人達がいる事を知っている。
なんとなく頑張っている人がいると、心の中で歌ってしまう歌が、これ。

「君の夢が叶うのは 誰かのおかげじゃないぜ。風の強い日を 選んで走ってきた。」
「飛べなくても不安じゃない 地面は続いてるんだ。好きな場所へ行こう。君ならそれが出来る。」
(the pillows, 「Funny Bunny」)

締め切りを迎えても、人生はまだまだ続くのです。妥協する事無く、思い描く、好きな場所へ行けるように頑張りたいものです。ちなみに、歌い手「the pillows」が今年15周年ということで発売されたトリビュートアルバム「SYNCHRONIZED ROCKERS」は豪華。なんてったってMr.children歌っているし。しかも曲は「ストレンジカメレオン」。

君といるのが好きで あとは ほとんど嫌いで
まわりの色に馴染まない 出来損ないのカメレオン
優しい歌を唄いたい 拍手は一人分でいいのさ
それは君のことだよ

勘違いしないでね 別に悲しくはないのさ
抱き合わせなんだろう 孤独と自由はいつも
(the pillows, 「ストレンジカメレオン」)

良い歌です。気分が落ち込んでいる時に、一人で高速移動(一般的にはドライブという)しながら聞くのがお勧め。

2005年01月30日

All I Ask of You - The Phantom Of The Opera

Say you'll share with me one love, one lifetime ...
Lead me, save me from my solitude ...

Anywhere you go let me go too.
Christine, that's all I ask of you

待ちに待った、映画版「The Phantom Of The Opera」。公開初日に万難を排して見にいった。誰もが有名なOvertureのフレーズには聞き覚えがある、”あれ”である。これまでにミュージカル版は4回くらい見ていて、もうすっかりPhantom様の虜であったため、アンドリュー・ロイド・ウェバー(ミュージカルの作曲家、英国貴族(Lord)である)の楽曲で完全映画化という話を聞き、それこそ「地獄の業火に焼かれながら、それでも天国に憧れる」思いで恋焦がれていたのである(一部、誇張あり)。

一応、軽くストーリラインに触れておくと、1870年代のパリ・オペラ座が舞台。オペラ座の看板スター、カルロッタは、気性の激しさ故、度重なる事故(オペラ座の関係者は「ファントムの仕業」と噂する)に気分を害して主役を降板してしまう。公演に穴が開くと心配していた支配人達は、コーラスダンサーのクリスティーヌが代役を務められると聞き、ためしに歌わせてみると、彼女は完璧な歌声を披露する。若く美しいプリマドンナ、クリスティーヌは一躍スターに。しかし、それは若くして父を亡くしたクリスティーヌに、天国の父が遣わした「音楽の天使」の指導あってのものだった。その姿をクリスティーヌは見たことが無い。
公演を見たクリスティーヌの幼馴染、ラウールは一目でクリスティーヌに惹かれるが、その恋を許さない「音楽の天使」は、初めてクリスティーヌの前に姿を表し、クリスティーヌをオペラ座の地下にいざなう。この「音楽の天使」こそ、「The Phantom Of The Opera」なのだ(じゃじゃーん)。

醜い顔を仮面に隠し、天才的な音楽の才能と狂気を内包するPhantom様は、若いオペラ座のパトロン、美男子ラウールと、クリスティーヌが永遠の愛を誓う姿を見て、激しい憎悪に身を焦がす。かくして、壮大で、美しくもはかない悲劇の幕が上がるのである。

と、もちろんストーリもとても魅力的。とりわけ、ホラー小説タッチであったルルーの原作を、容姿ゆえに一度も愛されることがなかったPhantom様の苦悩を軸にした恋愛物に仕立て上げたウェバーの手腕は見事というしかない。

あまりにミュージカルが完璧だったために、「大丈夫か?映画は。」と少し不安だったのも事実。しかし、まったくの杞憂だった。

音楽が、素晴らしい。

基本的に舞台と同じ展開、同じ音楽なので、もう最初からグッとくるポイントが多すぎる。悲しげに「Masquerade」を響かせるサルのオルゴールを見て呟く老体のラウール、そして例の”シャンデリア”。
オークショニアの「gentlemen?」の声とともに響く、例のメインテーマ(じゃーん、じゃじゃじゃじゃじゃーん)。もうここまでで一回泣ける(まだオープニングである)。

俳優陣の魅力、歌唱力も素晴らしい。特に、Phantom様のジェラルド・バトラーは、怪しくも官能的な魅力を振りまいている。ラウールのパトリック・ウィルソンも美男子。舞台よりもアクションシーンが豊富で、若く力に満ちたラウールである。クリスティーヌ役のエミー・ロッサムはまだ18歳。驚き。

魅力的なシーンは多々あるが、胸に響くのは「All I Ask Of You」。ラウールとクリスティーヌが歌うシーンも素晴らしいが、やはり本命はPhantom様がクリスティーヌに歌うところ。「The Point of No Return」の主旋律から遷移する部分は感動的。その歌詞が、冒頭の一説である。

登場人物総出演で展開される「Masquerade」は、豪華絢爛。劇中に使われる曲の主旋律がモチーフとして現れながら段々盛り上がっていく様は、映像美と併せて非常に見ごたえがある。

そして、ラストシーン。劇中で最も切なく、最も美しい「Christine, I love you ..」の台詞と、 Phantom様の歌が地底湖に響き渡る。

You alone can make my song take flight
It's over now: The Music of the Night

素晴らしい作品である。視覚と、聴覚と、心で感じて頂きたい。

2005年01月31日

NEMO means "No Name".

NEMO、ラテン語である。

英語ではNobody, ドイツ語でいうところのniemandか。「No Name」、つまり、名前が無いという意味である。
ジュール・ヴェルヌの「海底二万海里」(二万マイル(里)と訳されることもあるが、原作はリーク(海里)、単位が違う)の主人公、万能潜水艦ノーチラス号の船長の名前である。
彼はキャプテンにして発明家、芸術家にして科学者(マッド・サイエンティスト。なんといってもノーチラス号も彼が作ったのだ)という位置づけで、且つ、年齢不詳・国籍不明。まさに「NEMO」の名に相応しい人物である。だいたい、極秘裏に行動するための潜水艦の船長室にパイプオルガンをつけていたりするあたり、相当レベルが高い。

...と、まあ色々書いてみたんだけど、良いから動いてよ、NEMO。「NEtwork MObility」、カッコいい名前じゃないですか。最高じゃないですか!!

だから、お願い、プリーズ(涙)。

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